監督責任

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20041228k0000m040078000c.html

硬式野球部の部長と総監督に厳重注意のうえ半年間の役職停止・謹慎を命じた。

何かこういう問題が起こるといつも思うが、個人のプライベートな犯罪について仕事上の監督者が責任を持つ必要があるのだろうか。
今回の場合は大学の野球部ということで、スポーツマン(特に野球)はクリーンな人間のはずだ、というどこかの偉い人達のくだらない見栄や自尊心がそうさせている面もあるだろうが、彼らが犯罪のメンバーを亜細亜大学の野球部から募ったということに過ぎなく、なぜそこから選んだかといえばそこで生活する時間帯が長いから他のところから集める必要がなかったというだけのことで、監督や部長のような雇われの弱者がそういう人たちがパフォーマンスの為に振り上げた拳の下ろし場所が見つからないからといってとりあえずのような形で犠牲にされてしまったのなら酷い話だと思う。野球の監督が、選手達の野球以外のプライベートなところで何をやっているかなんて知る由もないしましてや責任を取る義理も義務もない。

比較としてぱっと思いついたのがスーパーフリーの件だが、この犯罪では早稲田大学の学長や担当教授は謝罪はしたものの停職処分になったりしたという話は聞かなかったし、念のためWebをザッピングしたがやはりないようだ。(ザッピングなので確証はないが)

少し話が外れるが、こういう風に結局権力のない人間が割を食うということを繰り返しているせいで青少年がそれをなんとなく感じ、「じゃあ権力を持てるようになろう、持ったら好き勝手しよう」という結果がいまのろくでもない犯罪やらの温床となっている気がしなくもない。
子供は大人から学ぶ、子供は大人を映す鏡だというが、歴史が繰り返すのはそういうことなのかもしれない。
でもどこかでその鏡をぶち割って、「どこそこの所属の誰それ」なんて看板に惑わされず個人が個人として立てるようにならねば自由主義社会ってなんなんだよって事にならないか。