字と書

ぜんぜん纏まりないけど、書いておきたかったのでメモみたいなもんです。
きっと読みづらい気がするので恐縮ですが。


ウチの母は書道の師範です。
そして不肖の息子たる俺は、お世辞にも字が上手いとはいえません。(笑)
でも見る目だけはあると勝手に自負しており、手前味噌にしても母の字ほど美しい書はないと思っています。
10年前の村山臥龍か、比田井天来くらいが比肩する書家だと思っています。
偉い書家とか評価の高い書家なんていっぱいいるのに、なんでかなーとずっと思っていたのですが、昨日話していたら少し分かった気がした。


もともと小さい頃に母が習っていた書道塾は、子供が100人くらいいて書くたびに先生のところに持って行って、「お、いいねえ」とか「もうちょっとこうしてみれば?」というコメントを貰う程度の半分遊び場的な場所で、筆の持ち方やら運び方なんていう技術的なことはそこで何にも教えてもらわなかったそうな。
なので、たまたま(というべきか)学校の書道の課題で文部大臣賞などを取った母に言わせれば、書道は別にどうでもいい存在だったらしい。
高校の先生に美大の書道科に行く事を勧められたけど、別に興味なかったからという理由で辞退してるし。働いて、結婚するまでの間、全く書は書いてないし。ウチで書道塾を開いたのも、生活のためだし。


ウチの書道塾を始めた当初、書道の教え方を模索していた時期は、まあよくあるように書道誌に作品を出して何級とかになるやつをしていたわけですが、その時代(俺とかに教えていた頃)はほとんど全く入選したり賞を貰う子供はいなかった。
しかし、ある時期からほとんど毎月賞を貰ったり、県の大会で入選する子がバカスカ出るようになっている。
ある時期、というのは、母が1人1人に手本を書くようにした時期から。(それまでは母が書くこともあったけど、だいたい書道誌に載っている手本を手本にしていた。)
そして、これが大事なのだが、その手本はその子がこれと同じ字を書けば入選すると母が思う字体で手本を書くようにしたこと。


入選する字体って言うのは、別に受験テクニックみたいなのがあるわけじゃないんだが。
まず、だいたい書道誌に載っている手本の字というのは、母に言わせると(俺もそう思うが)、美しくない。俺は一時期、母と一緒にいくつかの書道誌を並べて、どこの手本が一番良いか、という比較をやったりして(なぜか書の審美眼だけは信頼されていた)、どの書道誌の手本もやっぱり美しくない。
部分部分での細かい技術(払いとか、留めなんか)は上手いなと思うところもあるけれど、全体として、書としてみると字の配置や白黒のバランスという点で全く美しくないものがほとんど。書いてる人は書の世界では偉いとされている人なのに。
その頃は、自分が母の字で育ったから、母に近い字でないと受け付けないのかな、などと思っていたのだが、そこには根本的な考えの違いがあるように、昨日の話で気づいた。


何かって言うと、美術を教えるために、各要素にバラバラに分解するとこうなるのかも知れないと。
美しいものを書くために、美しい払い、美しい留め、美しい線を追及すると、それは表現として死んでしまうんじゃないかと。
そういった手本は、個々の部分的な技術はあっても、トータルで作品として見たときに鑑賞者側が何も感じる物がない状態になる。
母の書いている、入選する字体というのは、母が美しいと思える書なのだと言う。それは、必ずしも全ての要素が完璧な美を持っているわけではない。むしろ、全体性の中で個々の美については妥協している部分があると言えるかも知れない。
半紙という制約の中で、かつ、子供の書く字として必要な要素、つまり大胆さとか伸びやかさのようなものを追求して、逆に一般的に言えばあまり誉められたものではない書き方をする時もある。
でも、その字は面白い。見ていると、「おっ」と思わせられたり、「そう書きますか〜」というところがある。
書いた人がいることが明確に見えてくる。


元々、ウチの母は書道に興味がなかったのは書いたとおりだが、美術への興味は深い。なぜ書道に興味がなかったかというと、それはおそらく母が自分のしていたことが書ではなく、字だと思ったからだ。実用としての。
子供に教え始めてしばらくたったある時期から、母は自分の書きたい字というのはフォルムを持った字であることに気づいた。それが書。(と、ここでは区別してみよう)
そこには楷書とか行書とかの枠はなく、書きたいように書く。それが結果としてどこかの枠に入れられる事はあっても、書道三体が先にありきではない。その辺が根本的に違っているんだろう。
大抵書道塾なんかで教える時には、まず楷書から入って、それが上手に書けるようになると、次の段階として行書、そして草書という順であり、それはまあ見た目上分かりやすい順であることは否定しない。型から入ることが日本文化の伝統的な伝承方法だし、別段間違っているというつもりもない。
ただ、子供に教える書道教室というのは親の「きれいな字を書けるようになって欲しい」という観点から言えば、字を教えていることになる。日ペンの美子ちゃんみたいな。
でも細部の要素を教えても、実はきれいな字にはならない。いわゆる整った字にはなっていると思うけど、良く見ると実はいびつになるんじゃなかろうか。なんて思ったりする。
最終的に到達する地点は近いのかもしれないけれど、意識的に書を書く人と、無意識に「書に近い字」を書く(いわゆる「センスのある」)人との間には天と地ほどの差がある気もする。


書を美術表現として捉えるなら、いつかどこかでその「枠」に意識的に気づいて、超えなければならないんだと思う。
例えばピカソは変な絵書いてるけどデッサンを見るとアホみたいに上手いってのとちょっと近いような気もした。
子供に教えながら母は結局、表現することを意識すること(させること)で子供が評価を得ていることから、やはり型としての字ではなくて表現としての書こそが最終的に鑑賞者の目に留まるであろう事が段々分かってきたらしい。
そしてまた、自分のやりたいことも、字を追求する事ではなくて書を追及することだと意識したようだ。


今は方向性としては、三体よりも自由度の高いかな書に向いていて、さらにその先に見えているのは、よりフォルムそのものを意識した篆書の方向らしい。
これから母の書がどうなって行くかが楽しみだ。