死が見えたとき

死が見えた人間は、その事実については実は大して悲壮な想いを抱かない。
サンテグジュペリの「人間の土地」を読んでいて、最も共感したのはその部分だ。


機関士プレヴォーと共に砂漠の真ん中に不時着した飛行士サンテグジュペリは語る。

 <自分のことなんかじゃないよ……>*1 そうだ、そうなのだ、耐えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起きあがってまっしぐらに前方へ走り出したい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ!
 これはじつに変った役割の転倒であるが、ぼくはふだんからこう考えている。ただぼくには、完全に確信をもつために、プレヴォーが必要だったのだ。ところが、プレヴォーも、ぼくらがうるさいほど聞かされてきた、死を前の、あの煩悶は感じないらしいのだ。ただ彼には、忍びがたい何ものかがあるのだ。
 ああ! ぼくは安んじて眠るつもりだ、それがひと夜の眠りであろうと、または幾世紀にも続く眠りであろうと。眠ってしまったら差別はないはずだ。それになんという平和だろう! ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、少しずつ虐殺していく。激しい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのだ?なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくら駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!
(中略)
 そのときのぼくの考え方は理性的でこそあれ、けっして悲壮ではなかった。悲壮なのは、社会に関することだけだ。ぼくらに責任がありながらあの人々を、安心させることができないぼくらの無能力、これだけが悲壮だった。

何よりつらいのは、自分の社会に対する無能力さ加減なのだ。
自分の愛する人々を、自分を愛してくれる人々を安心させることの出来ないことがつらいのだ。


だから心配する必要はないということではない。
だから頑張れるのだ、だから生きてやろうと思うのだ。ということ。
その気持ちは、「悲壮」とは程遠いものだと確信する。

*1:泣き出したプレヴォーにサンテグジュペリが慰めの言葉をかけたとき、プレヴォーは「ぼくが泣いているのは、自分のことやなんかじゃないよ」と答えた。