「死ぬ」と「亡くなる」

一昨日、中島らもが死んだ。
ニュースですぐに知ったけど、自分は中島らもの作品をそんなに読んでないし、読んでもそんなに感銘を受けたりしなかった。彼の生き方もよく知らないし、正直なんで彼があんなに世に認知されているのかに首を傾げる。
なので特に書くこともなく放置しておいたのである。
だが、ふと個人のblogなどを眺めているとあることに気付いたので一寸書いてみたくなった。
blogなんて書いているのは大抵若い人間だから、今の若者の死に対するスタンスが垣間見えたような気がして。


ニュース新聞サイトは置いておいて、どうも「亡くなった」っていう書き方をする人が多い。
「死んだ」、ではなく「亡くなった」。
辞書的な意味では「亡くなった」の方が婉曲的表現と言うことになる。
「死んだ」だと生々しいのだ。
現代の多くの人は「死んだ」という直接的な表現を使うのを恐れていて、死を日常の外側に追いやっているように感じる。
また、辞書には書かれていないので個人的な感覚ということになるが、「亡くなった」には敬意が含まれていると思う。
死者に対する敬意を表すため、尊敬語として「亡くなった」を使っている。
本来的には「亡くなった」というのは尊敬語ではなく死んだの婉曲表現でしかない。
死がある特定の個人の周りでそんなに頻繁に起こるものではないにしろ、そうやって死を遠ざけて何か得体の知れない大きなものにしてしまうのは危険な気がする。
ホラー映画では最後の最後まで敵の顔は映さない。それによって恐怖感を煽ってクライマックスへの心理的高揚感をより効果的に演出する。
それとある種同じではあるのだが、実生活でこれをやるのは結構危険で、下手すると実際に死に直面したときに神経症になる可能性もある。
「亡くなった」を使うのを禁止しろと言うのではないが、ストレスの多い時代に、ストレスから逃げるために婉曲表現を使うことで自ら不安を大きくしているということに気付いても良いのでは無かろうか。


ちょっと経験談を引き合いに出そう。
昔、うちの実家で祖父が死んだとき、親戚に「亡くなった祖父がお世話になりました」みたいなことを俺が言っていたら(その時も祖父に対する敬意として意識的に「亡くなった」を使っていた)、母から注意された。
「死んだ」と言いなさい。と。
家族なんだから誰か遠くの人のように扱ってはいけないという風に言われた。
それ以来、むしろ自分が尊敬する人間が死んだときには、ちゃんと「死んだ」という風に言うことが、自分の中にしっかりとその人をしまいこむということなんじゃないかと思うようになった。


だから、中島らもを尊敬しているらしい人が「亡くなった」と書いているのを見ると、なんだかどこか遠くの世界へ中島らもをやってしまって理想化させてしまっているようで、それはちょっと違うんじゃないかと思うのです。